はじめに
月や火星などの天体を見ると、そこにあるのは石ころのような無機質な物体ばかりである。地球以外に生命のような存在は見つかっていない。宇宙は本来、石ころや砂のような命を持たない物質の集まりであるのに、なぜ「生命」や「心」という不思議なものを生み出すことができたのだろうか。命や心を持つ私たちは、無機質な石ころと何が違うのだろうか。私たちはどこから来て、どこへ消えていくのだろうか。本書の目的は、これらの疑問について科学と哲学の両面から深く掘り下げていくことである。
こうした哲学的な問いは難しく、何を手がかりにすれば良いのかすらわからない。しかし、最近、さまざまな分野で注目されている「情報」の視点から考察すれば、何か新しいヒントが見えてくるかもしれない。そこで、本書では「情報」の概念に注目しながら上の疑問に対する答えを探すことにした。
本書のもう一つの特徴は「アルゴリズム」の概念にも着目する点である。多くの科学書や哲学書を眺めると、「情報」の概念に注目したものは多数あるが「アルゴリズム」に着目して宇宙や生命を議論した科学書や哲学書はほとんどない。その理由は、「情報」に比べて「アルゴリズム」の適用対象が少ないと思われているからだろう。
アルゴリズムは情報工学の用語で、コンピューターで行う計算手法(論理的な計算手順)のことである。アルゴリズムと言われてもあまりピンと来ないかもしれないが、本書ではアルゴリズムの概念をもっと広い意味で使用する。つまり、(コンピューターでの計算手順を含め)自然現象の中で起きる因果的な連鎖現象(のある種類の流れ)をアルゴリズムと呼び、物理現象の分析に用いる。もちろん「進化」や「組織化」はアルゴリズムの概念を用いた分析の対象となるし、進化の前段階で起きる「化学反応の連鎖系」やもっと単純な「雪崩」もアルゴリズムの概念で分析できる対象である。この考え方は複雑系科学での分析手法を参考にしている。
私が本書の着想に至った理由は、最近の科学や哲学における発展の方向性にある。現代の科学や哲学は明らかに情報やアルゴリズムに関わる方向へ向かって急速に進んでいる。例えば、物理学では20世紀終わりに「量子情報科学」と呼ばれる新しい分野が登場し、すでに量子コンピューターが実用化段階に入っている。熱力学では「情報熱力学」という分野が構築され、沙川貴大が「情報処理の熱力学」(2015)でミクロな系における情報量の変化について深く議論している。
生命科学を見ても、佐藤直樹が「創発の生命学」(2018)でDNAの情報量を1 ギガバイトと見積もり、エントロピーや自由エネルギーを用いて情報の観点から見た代謝の視点から生命のメカニズムを考察した。また、J.v.ユクスキュルは「生物から見た世界」(1970)で生物種ごとに異なる認識世界を考察し、それを「環世界」と呼んだが、J. ホフマイヤーは「生命記号論」(2005)で個体だけでなく組織や細胞までもがメッセージを交換しあう「記号圏」として生命をとらえている。さらに、団まりなは「細胞の意志」(2008)で、生物の自発性の起源が細胞にある可能性を論じ、最近では中島敏幸(2019)が情報と認識主体の関係についての一般論を考察し、いかにして主体(生物など)が自己の内部から外部の実体を知ることができるのかを論じている。
複雑系科学や意識科学でも情報やアルゴリズムの視点からの研究が盛んだ。著名な複雑系科学者であるS.カウフマンは「World Beyond Physics」(2020)で、生命の起源について情報やアルゴリズムの観点からの説明を試みている。また、意識科学ではM. マッスィミーニが「意識はいつ生まれるのか」(2015)で、神経回路網内部で統合された情報量を定量化し、それを意識の量と見なす新しい理論(統合情報理論)を提唱した。さらに、西垣通は「基礎情報学 生命から社会へ」(2004)において情報の概念を幅広く検討している。
哲学の分野でも「情報」概念は注目されつつある。例えば、戸田山和久は「哲学入門」(2014)の冒頭で「科学の成果を正面から受けとめ、科学的世界像のただ中で人間とは何かを考える」と述べ、情報の観点から哲学の諸問題について再検討している。チャーマーズも「意識する心」(2001)や「汎心論」(2020)で物質と意識の関係を「情報」の観点から考察している。
このように、最近の科学や哲学の最先端研究は「情報」や「アルゴリズム」をキーワードとしてつながっているように見える。本書の狙いは、そうした異なる分野で得られた知見をつなぎ合わせて、「情報の創造的進化」という新しい視点から宇宙、生命、意識の全体を一つの流れとして捉えなおすことである。したがって、本書の内容は科学的でありながら、哲学的でもある。宇宙の進化から生命の発生、そして、「私」という主観世界の誕生まで、さまざまな分野を横断しながら展開する内容を最後まで楽しんで頂けたらと思う。
2022 春 美しき川と緑の一関にて
白井仁人
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