エピローグ:人生の2つの意味
4.1 人生の意味:経験論と実在論
ようやく本書の最後までやってきた。
前章で「実在論」と「経験論」について議論してきたが、
ここではそれをもとに「人生」について考えてみたい。
・新しい生と意識の誕生
「実在論」は、実在世界を直接見たり聞いたりできるわけではないが、
観測器や感覚器官を通して実在世界の情報を知ることができると考える。
もちろんそうした客観的な世界が存在する保証はないのだが、
多くの人は他者も言うこの世界の存在を信じたりする。
(例えば、スーパーマーケットで買い物をした人が
「スーパーマーケットは想像物だな」などと考えることはない。)
「実在論」に基づいて一人の人間の「誕生」について考察するとき、
どのように調べるのだろうか。「実在論」に基づいて調べるとは、
客観的に調べるということだから、
(自分の誕生ではなく)多くの人の誕生について調べるということである。
それらの平均的な描像を得るのが実在論的な考察である。
例えば、多くのデータをもとに
「母体の中にいるときから意識があるのか」を議論したり、
「意識の誕生の瞬間とはどう定義できるのか」と悩むなどできる。
これはこれで一つの考え方だと言えよう。
これに対し、「経験論」に基づいて「誕生」について考える場合は、
他者の経験をもとにするのではない。なぜなら「経験論」では、
他者を含む客観的な世界が実在するとは考えないからである。
経験論では自分(の経験世界)だけが存在すると考える。
よって、自分の経験に基づいて考察するのみだ。
自分の誕生のときを思い出すと、私の場合、
いつから意識があったのかまったくわからない。
母のお腹の中ですでに意識があったのか。
それともお腹の外に出てから意識が生まれたのか。
よくわからない。
結局のところ、2つの見方はまったく違っているということだ。
それぞれの立場で「意識の誕生の瞬間はいつか」と考えてみてもかなり違う。
まず、実在論では、赤ん坊(他者)の存在を観察装置を通して見ることができる。
それで見ると、まず物質としての存在から始まり、脳がはたらきはじめ、
次第に意識がはたらくようになる。それによって、
「意識の誕生の瞬間は、母親の腹の中にいるときか、出産後である」という答えが得られよう。
これに対し、経験論はそれとまったく違う。
経験論では、自分の経験しかもとにできないが、
自分の赤ん坊の頃の経験などほとんど記憶がなく、
その頃、意識があったかどうかすらわからない。
したがって、それ以上前のどこかで、
意識のない状態からある状態へ変わったことなんて、
経験から調べることは絶対にできないわけである。
つまり、経験論で意識の発生など考えようがないのだ。
例えば、意識のある状態を「1」、ない状態を「0」、不明を「*」とする。
このとき、実在論における脳状態の時間変化と
経験論における(自分の経験から推測した)状態の時間変化は
下のような違いがあるだろう。
脳状態の変化(実在論):… →0→0→0→0
→1→1→1→1→ …
脳状態の変化(経験論):… →*→*→*→*→*→*→1→1→ …
意識の「ある」を確認する場合、経験論は実在論よりもはっきりと確認できる。
しかし、意識の「ない」を確認する場合、経験論はまったく使えない。
自分の経験でわかることは、「不明」だったということだけである。
「不明」は「0」であるかもしれないし、「1」であるかもしれない。
実在論では「ない」から「ある」への変化(0→1)を「誕生」と見なせるが、
経験論では「ない」ではなく不明「*」だから、
「*→1」という変化を「誕生」と定義することはできないのだ。
・自己の死は存在しない
同様の考え方は、家での昼寝のことや病院での麻酔、
そして、死亡に対しても成り立つ。
実在論の立場に立てば、死亡とはすべて他者の死亡のことであり、
死亡の性質は多くの人々のそれぞれの原因によって説明できます。
しかし、経験論に立つと、
自分の経験の中に「生」はあっても「死」は存在しない。
生から死への時間変化を、先ほどと同様に表してみると次のようになる。
脳状態の変化(実在論):… →
1→1→1→1
→0→0→0→0
→ …
脳状態の変化(経験論):… →1→1→*→*→*→*→*→*→ …
この図からわかるように、実在論では「死」(1→0)のタイミングがわかるが、
経験論では「死」を定義できない。
このように「存在」の意味が実在論と経験論の場合で違う。
実在論の存在「1」の逆は不存在「0」である。
しかし、経験論の存在「1」の逆は不明「*」である。
したがって、我々は実在論的に「意識が存在する」ということと
経験論的に「意識が存在する」というときの「存在する」が
どちらも同じ意味だと考えるのだが、実は絶対に違うのだ。
実在論の存在は一般の人の存在のことだが、
経験論の存在は自分の存在のことである。
多くの科学者は、一般の人々の脳の性質と彼らが話す「意識」を調べ、
それらの関係を明らかにしようとしている。
しかし、それは私の「意識」の存在を説明していることになるだろうか。
まったくそれが説明になっていないことに気づく。
明らかなのは、客観的な(実在論的な)「意識」に対する科学的な説明は可能だが、
主観的な(経験論的な)「意識」に対する説明は、科学では不可能である。
実在論も経験論も持ちながら、超越的な立場から考えることが重要だと思う。
・人生の2つの意味
私が感じた「人生」の意味について(超越的な立場から)話そう。
まず、人生に対する実在論的な意味は、社会の中で自分がした仕事の意味のことだと思う。
それは、普通の人が想像する「人生の意味」だと言える。例えば、サラリーマンにはどれだけ良い成果を出し、
良い給料がもらえたかが人生の意味と感じるだろうし、作家にはどれだけ良い本を出せたかが重要になるだろう。
野球選手はどれだけ良いピッチングやバッティングが 出せたかが重要になるだろうし、
レストランの料理人も非常に良い料理を出せれば 人生の意味が素晴らしいものになるだろう。
つまり、普通の人にとって人生の意味とは、実在論的な意味のことだ。これはわかりやすい。
これに対し、もう一つの「人生」の意味は、経験論的な意味のことだ。
それはどういう意味だろうか。それは、自分の経験に基づくものだから、
野生動物たちでさえ感じる「人生の意味」だと思う。
先ほど述べた(社会の中で素晴らしいものを残した)という考え方は、
野生動物が感じるような価値観ではない。なぜなら人間のように高度な社会を作っていないからである。
経験論的な「人生の意味」とは、もっと単純な意味である。
それは、今、なるべく楽しいことをたくさんやることである。
動物の場合、おいしいものを食べたり、子孫を残したりすることかもしれない。私の場合、楽しいこととは、
家族や友人と電話したり、書籍の文章を書くことだ。
たとえ数週間後か数か月後に亡くなる可能性があったとしても、
そういうことは関係なく、単純に楽しいことをやるのだ。
それが経験論的な人生の意味だと言えよう。
こうして私には人生の意味が二つ見つかったことになる。
実在論的な意味は、社会の中で素晴らしい意味を持つことである。
また、経験論的な意味は、たとえ人生が短くとも、一瞬一瞬を楽しみながら時間を過ごし、
人生を進んで行くことである。
私はこれら2つの意味を意識し、人生を楽しんでいこうと思う。
読者の皆さんも是非、賛同し、喜んでいただけたらと思います。