3.2 心の哲学と主観世界 

・心の哲学について

 心や意識を研究する分野は、医学や工学、理学だけでなく、 「哲学」と呼ばれる広い分野がある。 「哲学」による心や意識の議論はすでにギリシャ時代に行われていて、 ソクラテスやプラトンが有名である。 それから15世紀ころまでは、現在あるいろいろな分野(科学や工学を含む)も すべて「哲学」と見なされた。しかし、16〜17世紀になると徐々に 科学と見なされるようになった。 それは、実験で多数のことが確かめられるでようになったからだと思われる。 農業や戦争の技術が進み、特に造船技術が進歩した。 人々は遥か遠方の大陸へと進めるようになった。 17〜18世紀には、光や電気、磁気の技術が進み、哲学とは完全に別のものになった。 19世紀には「科学」という名前で呼ばれるようになり、 哲学からはっきりと独立するようになった。
 科学と哲学の間には決定的に違うことがある。それは、 科学では物質や時空など客観的な存在を仮定し、 そこでの実験や観測のデータを証拠にするが、 哲学では客観的な存在を仮定せず、自分の経験のみ信じるという点である。 自分の経験とは、自分が見たり聞いたりして経験ができた世界のことである。 自分が自分の瞬間(今)や自分の見方(場所)で 感じ取れた世界は「主観世界」と呼ばれている。
 「意識」と「主観世界」という言葉が(よく似た意味だが) まったく違う意味であることを理解しておいてほしい。 「主観世界」は、私自身が見たり聞いたりして経験できている 私自身の世界のことである。私の「主観世界」が存在することは、 私が直接経験しているという証拠があるため、信じることができる。 これに対し、他者も同様のやり方で自分の目で見たり耳で聞いたり し、それにより他者自身の世界があるのかもしれない。 そう仮定した各自の世界を「意識」と呼んでいる。 他者に本当に「意識」があるかはわからないが、 他者にも(私と)同様の経験があると信じれば、 誰にでも「意識」が存在すると考えることになる。
 「哲学」はさまざまな話題を議論するが、上で述べたように 心や意識について議論する分野を「心の哲学」という。 「心の哲学」には、「主観世界」だけ信じて物質や時空などを 仮定できないとする考え方がある。 それを「経験論」(=経験主義)と呼んでいる。 これに対し、物質や時空などを仮定できると考える人たちもおり、 彼らの立場を「実在論」とか「実在主義」と呼んでいる。
 「自分の直接経験は信じられるが、コップなど客観的な物体の存在は 信じることができない」と主張するのが経験論である。 これに対し、「客観的世界の実在性を仮定できる」というのが実在論である。 「経験論」と「実在論」はどちらも反対の立場だが、 どちらにもそれぞれ支持する哲学者がいる。

・経験論:自分の心だけ存在する

 主観世界が存在することは、本人の経験によってわかる。 「主観世界」とは経験そのものであり、経験全体のことである。 よって、経験している人には、それが存在することがわかる。 ただし、私にわかるのは私の「主観世界」だけだ。 他者が存在することや、他者の「主観世界」があることはわからない。 したがって、私が私の「主観世界」の存在は信じるが、 他者の存在は信じられないという哲学者もいる。 その場合、「主観世界」の議論は自分存在の議論にしかすぎなく、 多くの人々と議論することに意味がなくなってしまう。
 多くの「心の哲学」者が学会や著書など、いろいろな人と情報を 共有しながら議論を行うのは、 「主観世界」という心を自分の心にだけあると考えるのではなく、 さまざまな人たちにも「主観世界」(=心)が存在すると考えるからだろう。 つまり、「主観世界」の直接的な証拠は自分の経験だけだが、 同じ人類が同じ経験を口に出しているのであれば、 他者にも心(主観世界)が存在すると信じる人は多くなる。
 ただし、皆が同じ考え方というわけではなく、 以下の3つの考え方のどれを信じるかによっていろいろ違うので、 よく確認しておいた方が良い。

(ア)自分の心だけが存在する。(自分の経験が主観世界の証拠である。)
(イ)他者の心も存在する。(同じ人類だから、他の人にも心があると信じるのはおかしくない。)
(ウ)他者の体や物体も存在する。(他者の心があるのだから、他者の体や脳があり、物体が存在する。)

 (ア)までしか認めない場合、他者の存在を認めないのだから、他者との議論は意味がなくなる。 (そういう立場を独我論と呼ぶ場合もある。) (ア)だけではなく(イ)も認める人も多い。 (ア)だけ認める人や(ア)と(イ)の両方を認める人を「経験論」という。 これとは逆に、(ウ)だけを認める人もいて、「実在論」と呼ばれる。 経験論と実在論は相反しているように見える。

・実在論:宇宙や素粒子は確かに存在する

 物体や時空(他者も含む)など客観的な世界が存在すると信じる人たちもいる。 彼らが行う「科学」の研究は、客観的世界の存在を仮定した上で成り立っている。 そうした仮定を置くことでデータを分析し、 さまざまな法則を見出すことができる。 しかし、それを信じて良い理由はどこにも存在しない。 科学者が客観的世界(宇宙や素粒子)の仮定を信じるのは (直接的な証拠があるからではなく)、 客観的世界の存在を信じることで、 多くのデータを見ることに意味が生じ、 客観的世界の性質や法則を見出せるようになるからだろう。 それは、単に自分の思考の深厚というだけでなく、 社会への大きな貢献となるからだと言える。
 普通に考えていると、実在論もおかしい考え方ではないように思える。 例えば、あるテレビが多くの人に同時に見られていたら、 そのテレビという物体が存在すると考えてもおかしくないと感じるだろう。 山や海も同様だし、月や星だってそう考えてもおかしくない。 しかし、徐々におかしいものにも気づき始める。 例えば、「青空」や「虹」はどうだろうか。 それらも多数の人から見えるのだから、存在すると言えるような気もする。 しかし、科学的に調べると、それらは物質的な存在そのものではなく、 光学的な存在(「見え方」に依存した存在)にすぎないことがわかる。 「青空」や「虹」は物質的な存在ではなく、 観測の角度などによりそれらの存在のしかたが変わってしまうものなのだ。 そう、物質というよりも観測対象なのだ。
 さらに、客観的な存在についていろいろと考えていると、 非常に難しい概念であることに気づく。 例えば「葉っぱ」は生きている間、緑色で生き生きとしている。 しかし、枯れて土に落ちると茶色になり、 溶けて次第に土と同化し、ついに土と一体化してしまう。 そのとき、どこまでが「葉っぱ」でどこから「葉っぱ」でなくなったのか。 「葉っぱ」の存在はすごくはっきりしているのに、 時間が経つと徐々に客観的対象と見なせなくなっていく。 このように客観的存在は理解の難しい部分も含んでいるのだ。
 量子力学の範囲までいくともっと難しい状況になる。 普通の大きさの物体である自動車や石ころは、 分子や原子からなるので客観的な存在だと簡単に言える。 ところが、量子力学についてよく勉強すると、 分子や原子が存在するというときの「存在」の意味がかなり難しい。 分子や原子や素粒子などの「存在」は、さまざまな条件下で一部の性質を 捉えたデータはあるのだが、すべての性質を同時に観測することができないため、 コップや鉛筆などの「存在」と同じように考えることができない。 分子や原子などの存在は、 一般の人々が考えているほどはっきりした意味ではないのだ。

・経験論と実在論の対立

 哲学書を読んでいると、経験論と実在論が対立していることがよくわかる。 対立の理由は、経験論が自分の経験(主観世界)だけを信じるのに対し、 実在論が他者との共通概念を仮説とし、物体や時空の存在を信じることにある。 両者は完全に排他的で両立不可能だと言える。
 普通の人はどちらの立場を取るべきだと考えるのだが、 よく考えると、両方取るわけにはいかないのかと気になる人もいる。 著者(白井)もその一人である。 私(白井)は、もともと科学者と同じ「実在論」者だったのだが、 途中から「経験論」もいくらか支持するようになった。 そして、結局、それぞれの良いところを認めるようになったのだ。
 同様に、3.1で紹介した「意識」の研究者を思い出すと、 彼らは両方支持者のように見える。 まず、彼らは被検者が体や脳を持つと考えているから、 その意味で実在論者である。 また、彼らは被検者が「意識」も持っていると考えているから、 その意味で経験論者でもある。 「意識」という考え方が成り立つには、 そもそも実在論と経験論の両方を持つしかないのだ。 それらは非両立であるいも関わらずだ。
 経験論と実在論は両立しないはずなのに、 「意識」の研究者は経験論と実在論の両方を信じている。 そのような見方はどうして可能なのだろうか。 私自身もそのような見方をしている。 どうしてそのような見方をしているのだろうか。 そうした見方が可能で有効なことを、次のところでしっかり説明したいと思う。