第3章 意識と存在:主観世界の誕生へ
第1章で「宇宙」、第2章で「生命」について考察してきたが、
第3章では「意識」について議論する。
これら3つの内容はバラバラに見えるかもしれないが、
実は密接に関係している。
宇宙の進化はさまざまな物質を生み出し、生命を誕生させた。
生命は複雑なシステムへと進化し、「意識」を持つ人類まで生み出した。
この深いつながりの先に「主観世界」と呼ばれる不思議な存在もある。
第3章では「意識」に関係するさまざまな問いについて議論していく。
3.1 意識(心)とは何か
・意識の科学
「意識」とは何だろうか。
「意識」という言葉のおおもとは、
古代から使われている「心」の意味にほとんど近いと思われる。
古代の人は、人間や動物の行動のもと
(感情や意志、知識など)をまとめて「心」と呼ぶようになった。
大昔の人々にとって「心」は割りとわかりやすい概念だっただろう。
例えば、高熱を出した病人も「心」を持っているだろうと思ったし、
赤ん坊でさえ「心」を持っていたと考える人が多かった。
さらに、犬や猫などにも「心」があると考えた人もいるし、
魚や昆虫にも「心」があると考えた人さえいた。
このように「心」は非常に抽象的な概念だったが、
多くの人は人間が「心」を持っていると考えていた。
ところが、17世紀になると、
心の動きがどのように体の動きに反映されるのかが、よくわからなくなった。
そして、デカルトは人間の心と体の関係(心身問題)について深く考え、
この世界には「物」と「心」という本質的に異なる独立した二つの実体がある
という考え方を提示した。これが「物心二元論」である。
それは、世界に「物」(例えば脳)と「心」が同時にあって、
それらが相互作用して情報をやりとりしているという考え方であった。
(ちなみに、ペンローズやエックルズなど現代の一部の科学者は
量子脳理論を唱え、二元論を支持しているように見える。)
現代の医学者や科学者の世界を見渡すと、
だれも「デカルトの二元論」を支持していないように見える。
そもそも「心」というあいまいな言葉すらほとんど使わなくなったのだ。
「心」ではなく「意識」という言葉がよく用いられるようになった。
「心」は一般人が使う(定義があいまいな)言葉だが、
「意識」は各専門家が(定義を与えながら)使う言葉である。
その意味で「心」より「意識」の方が使いやすいかもしれない。
しかし、「意識」の定義を細かいところまでよく見ると、
「意識」の意味は各専門家ごとに異なることに気づく。
例えば、生まれた直後の赤ちゃんも「意識」を持つと考える人もいれば、
持たないと考える人もいる。
一般的な大人の「意識」であれば、理解は難しくないが、
その「意識」の定義がどの範囲まで適用可能と考えるのかは、
人によって変わってしまうのだ。
そこが、難しいところだと言えよう。
・動物の意識
動物に対して「意識」を考える場合も、人によっていろいろ変わる。
例えば、人間だけが意識を持つと考える研究者もいれば、
チンパンジーも意識を持つと考える研究者もいる。
イヌやネコも意識を持つと言う人もいれば、
さらに魚類やタコまで意識を持つと想定する人もいる。
いずれにせよ、(共通の土台を持ちつつも)
どこまでの範囲を「意識」と見なすかは、
研究分野ごとに(研究者ごとに)違っていたりする。
かなり面白いのは
「細胞の意志 <自発性の源>を見つめる」(団まりな)という
著書の内容である。
細胞こそ自発性の根源である意志を持っているという
著者の主張は非常に面白いと私は感じた。
もっと詳しく解説したいところだが、余裕がないのでここまでとしたい。
読者の皆さんも是非、著書の内容を読み、
細胞こそ自発性の根源だと主張する理由を見てみてほしい。
いずれにせよ、「意識」の定義には研究者ごとに差があったりする。
人間だけが意識を持つと考える人もいるし、
原始人ももつと考える人もいる。
猿がもつ、イヌももつ、爬虫類ももつという考え方がありえるし、
魚も持つ、タコも持つなど、かなり広げた人もいる。
さまざまな範囲の動物までが「意識」の対象だと見なす研究者もいたりする。
その点は知っておいた方が良いだろう。
・人工知能:アルゴリズムと人工意識
医学系や生物学系の研究者と比べると、
工学系の研究者たちはまた違った考え方を持つ。
特に、一部の工学者は「人工知能」(AI)が「意識」の土台となりえる
と考えている。
さらにこの考えを発展させ、
人間の脳が機械中の人工知能と結びつくことによって、
意識を拡大させることができるとさえ考える人もいる。
確かにその可能性はあるのかもしれない。
しかし、普通に考えると、
(脳が機械と結びつくことによって
「意識」が拡大されるのではなく)
単に「人工知能」によって思考能力が拡大するだけのような気がする。
「人工知能」が拡大するのか。
それとも「意識」が拡大するのか。
それらはまったく意味が違う。
機械との接続によって人間の計算能力が拡大しても、
それは普通の能力の拡大であって、驚きはしない。
しかし、機械との接続によって人間の「意識」が拡大する
(あるいは機械の「意識」と融合する)のであれば、
それは非常に大きな驚きとなる。
この二つには、本質的な違いがある。
この問いにどちらがの答えが正しいか結論を出すには、
もう少し発達が必要である。
計算機科学の分野は、特に最近、急激に発達している。
その対象物として多くの人々に注目されているのが
「生成AI」や「人工意識」である。
「生成AI」は単なる「AI」(人工知能)と違い、
外部からの不確定な要素を取り入れている。
そのため、確実な判断を計算する(昔からの)AIではなく、
将来の(不確かさを含む)予想を計算する「生成AI」と呼ばれている。
また、「人工意識」とは、意識を持つ脳とAIを結び付けたときの
全体のことであったり、あるいは、AI中に意識を移したときのシステムのことで
あったりする。
こちらはそれほど明確な共通の定義を与えられてはいないようだが、
人類の意識が人工知能の中に移りうるのではないかと考える工学者が
そう呼んでいるように見える。
ここまでの内容で言いたかったことは次のことである。
(1)人工知能(AI)や生成AIの概念は、多くの研究者にかなり深く理解されている。
(2)しかし、人工意識という言葉は、研究者によって意見がバラバラである。
人間が本来持つ「意識」のことや、コンピューターが持つ「人工意識」などについて
面白い本が何冊も出ている。確かにそれは面白いが、
大事なことは、そもそも「意識」の概念が人によってまだ異なっているように見えることである。
同じ言葉(意識)を用いても、同じ概念について話しているとは限らないのだ。
そうした議論には、まだまだ時間が必要である。
・心の移送は可能か:人工機械ヘ、培養脳へ
あなたは次の問いにどう答えるだろうか。
「人間は意識を人工機械(AIなど)に移すことが可能か。」
研究者はこの問いに対して「イエス」と答える人が多いだろう。
実際、渡辺正峰氏はこの問いに「イエス」の答えを示している。
その理由も明快だ。それは、彼が意識の本質を神経系のアルゴリズムだと見なしているからである。
他の科学者たちの多くも同様に「イエス」と答えるだろう。
しかし、私の答えは「ノー」である。
その理由は、「意識」を生み出すものが、単に、
ニューラルネットワークや生成AIのような人工的なアルゴリズムだけでなく、
さまざまな種類のアルゴリズムを含んでいるだろうと考えるからである。
確かに、計算や予測などの過程には、
ニューラルネットワークや生成AIのような
アルゴリズムが関わっているだろう。
しかし、普通考えた場合の「意識」は(計算や予測だけではなく)、
目覚めているときのさまざまな心の動きのことも含むと思う。
例えば、考察によって生じる「快」や「痛み」、あるいは、
体験に伴って生じる「感情」、
そして、知覚、記憶、想起など、
いろいろな心の動きが「意識」に含まれると思われる。
そう考えると、ニューラルネットワークや生成AIなどは
「計算」や「予測」などかなり限定された現象の再現であり、
「意識」全般ではないと考えられる。
そのため、「意識」全般を人工機械(AIなど)に移すことは
無理だと私には思えるのである。
ここでもう一つ、別の疑問について考えてみよう。
「私たちは自分の意識を、培養された脳(=培養脳)へ
移すことは可能だろうか。」
この問いへの私の答えは「イエス」である。その理由は、
ニューラルネットワークのような過程だけでなく、
化学過程や遺伝子過程、細胞過程などさまざまなレベルでのネットワークを
作ることが可能かもしれないからである。
そうであれば「意識」全般を再現できるかもしれない。
例えば、次のような方法を考えてみた。
@まず自分の脳細胞を摘出し、培養する。自分の細胞でできたコピーを創り出す。それを「コピー脳」と呼ぼう。
A次にコピー脳の状態を操作し、自分の脳の状態に近くする。
Bさらに、自分の右脳と左脳をつなぐ部分(脳梁)を切り離し、一時的に自分の右脳とコピー左脳をつなぐ。
Cこれにより、培養された左脳(コピー左脳)に意識が移せたかどうかを自分で確認できる。
Dその後、右脳をコピー左脳から切り離し、再び右脳とオリジナル左脳をつなぐ。
Eこれによって、元の脳で元の世界を感じられているか確認できる。
Fこうして確認できた場合、右脳と左脳が作る「主観世界」も、
右脳とコピー左脳が作る「主観世界」も同質のものだと、
自分の経験を通して確かめることができるわけだ。
私は脳が計算機と同種のネットワークではないから、
意識を計算機に移すのは難しいはずだと考えている。
脳は電気回路ではなく物質でできており、
エネルギーを用いた化学反応により支えられているのだ。
そこには、電気回路的なニューラルネットワークと異なる過程が起きている。
また、生命活動として見たとき、脳活動の全体は化学反応の集合体とも言える。
例えば、人間が考えたり、しゃべったりすれば、体内でさまざまな化学反応が起きる。
怒ったり、笑ったりしたら、それらはすべて化学反応で説明できるのだ。
このような化学反応の触媒になっているのがタンパク質であり酵素である。
計算機の電気回路とはまったく違う過程が含まれているので、
計算機に移すのは無理だろうと私は考えている。
【コラム】 ロボットに心を移す「映画」たち
人間の意識が人工機械やロボットに移せると仮定してストーリーを展開する映画がいくつかある。
どれもが面白い映画だ。私の知っている最も古い映画は「マトリクス」で1999年に見ることができた。
映画「マトリクス」は、人間の脳が機械につながれ、人工的な世界(機械が作った世界)の中で
各自が自分の人生を送っているという設定だった。
2014年には映画「トランセンデンス」が有名になった。この映画では、
人間の意識を機械の中に転送させる実験を行う科学者の話だった。
その科学者は自分自身の意識を機械の中に移し、機械の中で生き続けようとした。
しかし、機械の中に移ったその人の性格は徐々に変化してしまい、
いろいろな問題を引き起こすというストーリーだった。
ほぼ同じ時期の2015年に、映画「チャッピー」が世に出された。
この映画では、人間の脳がロボットにつながれ、
意識がロボットの中に転送されるという話だった。
そこでは人が亡くなった後もロボットの中で人が生き続けるという設定で、
「トランセンデンス」よりどこか明るい雰囲気だった。
図0-3(a) 左:映画「マトリクス」では機械から脳に信号が送られ世界が見える、
(b) 右:映画「チャッピー」では人の心が脳から機械に移される
これら3つの映画の設定を振り返ると、最初の一つと後の二つは全然違っていた。
昔(1999年)の映画「マトリクス」では、
単に、機械が作った世間が各自の脳に入れられただけだった。
つまり、「マトリクス」では人間の脳が機械につながれて、単に人間の脳に信号が送られることで
機械に「世界」を見させられていたのだ。
これに対し、「トランセンデンス」や「チャッピー」では、
もはや脳は存在せず、機械自体が脳の役割を果たし、
「心」が人の体から機械へと移されたという内容である。
機械が「心」を生み出したという設定だと言える。
この点は非常に違う。
映画の視聴者の多くがどう考えるかわからないが、私自身は次のように考えている。
まず「マトリクス」の場合であればそれは可能である。
理由は、機械で作られた世界を意識に投影するだけだからである。
意識をものに移動させるのではなく、単に外から脳へ投影するだけだから難しくはない。
実際、現在の電機業界ではテレビどころか
スマートグラスやそれ以上のものが作られている。
これに対し、「トランセンデンス」や「チャッピー」の状況は実現しないと考えている。
理由は「意識」という難しいものを、
脳という媒体から機械という媒体へ移すことが無理だと考えているからである。
私は、脳がいろいろな細胞からなり、さまざまな能力を持つために、
「意識」を創り出せていると考えている。
だから、「意識」を機械に移すことは不可能である。
それが「トランセンデンス」や「チャッピー」は無理だと
考える理由である。
皆さんはどう考えるだろうか。