1.4 第一の飛躍:創造的な宇宙へ
・膨張する宇宙
なぜ宇宙が初期に低エントロピーの状態だったのかという問題は今のところ「未解決」だが、初期以降の宇宙の進化については、かなりわかっている。ここで、現代物理学が明らかにした宇宙の進化について振り返ろう。
宇宙の進化を考える場合、重要なことが2つある。第一は、重力の効果である。重力を考えない場合、平衡状態(エントロピーが最大の状態)とは、物質が空間に十分に散らばり温度が一様になった状態のことである。しかし、重力を考える場合、平衡状態とは、物質が自己重力によって集まり、これ以上集まれないところまで物質が集まった状態のことになる。エントロピー増大の法則によって平衡状態へ向かうと言っても、重力の効果を考えるか考えないかでその様相は随分と違ってくる。
第二は、物質の生成である。宇宙は初め光(輻射)で満たされた状態から始まったと言われている[31]。その後、宇宙の膨張によって輻射の温度が下がって物質が存在できるようになった。宇宙の進化を考えるとき、光(輻射)だけの宇宙か、光と物質が混在する宇宙かで、その物理過程が大きく異なってくる。宇宙の進化では、膨張、温度低下、物質生成の三要素がどのように絡み合うかが、理解の重要な鍵となる。
重力の効果から考えよう。重力による宇宙の進化は、一般相対性理論のアインシュタイン方程式を解くことによって考察できる[7,38]。フリードマンは1920年に一様性等方性などの仮定を置いて宇宙の進化を解いた。その解はパラメーターの値の違いによって3種類に分けられる。その概要が下の図である。
フリードマンの宇宙モデルでは、 k>0 と k=0 のとき、宇宙は膨張し続け、k<0 のときだけ、膨張後に収縮に転じて大きさ0で終わる。どの場合も大きさ0から膨張する点は共通しているため、膨張宇宙モデルと言われる。このモデルはハッブルの法則をうまく説明したため、広く支持されるようになった。ハッブルの法則とは「遠方の銀河は地球から遠ざかっており、遠ざかり方は遠い銀河ほど速い」というものである(E.ハッブル,1929)。フリードマンの宇宙ように時空が均等に膨張していると考えれば、遠くの銀河ほど速く遠ざかることが説明できる。
膨張宇宙で時間を反転させて過去へさかのぼっていくと、宇宙初期には非常に小さい領域に多くの物質が集まっていたことがわかる。この推測から1948年にガモフらは、宇宙は初期に超高温・超高密度の「火の玉」であったというモデルを提案した。ガモフらはそれを「火の玉宇宙」と呼んだが、後に「ビッグバン」というネーミングが受け、そう呼ばれるようになった。
図1-12. アインシュタイン方程式の3つの解。縦軸 R は宇宙の大きさを表すパラメーターである。
現在受け入れられている最新の宇宙モデルは、最近、わかったいくつかの情報を含んでいる。その情報とは宇宙の加速膨張である。2012年に宇宙の加速膨張の発見によってS.パールマッター、B.P.シュミット、A.G.リースはノーベル賞を受賞した。上で述べたフリードマンの3種類の宇宙モデルは、どれも減速しながら膨張していくモデルだから、加速膨張は含まない。加速膨張を取り入れた宇宙モデルを示すと下の図のようなイメージになる。
図1-13. 加速膨張を取り入れた膨張宇宙のイメージ。
加速膨張の不思議さを理解するために、なぜフリードマンモデルで宇宙の膨張が減速するのかを思い出そう。減速の理由は、膨張の運動エネルギーが奪われていくからである。それは、斜面を上るボールを思い浮かべると理解しやすい(下の図左)。初速度 v_0 が小さいとき(フリードマンモデルの k>0 )、ボールは斜面の途中まで上がり、そこで運動エネルギーを使い果たすために反転して斜面を下る。初速度が非常に大きいと(k<0)、斜面の最高点まで行っても運動エネルギーを使い切らず、余力が残っている。そのため、さらに先へ進んでいく。そして、ちょうど最高点で止まるような絶妙な速さで出発するのが k=0 の解である。どの解も、斜面を上れば上るほど運動エネルギーが奪われるため、徐々に遅くなる。これが減速の理由である。
図1-14. 膨張宇宙のエネルギーのイメージ。
この例に合わせて考えると、宇宙の加速膨張とは、斜面を上っているボールが途中でなぜか加速し始めるようなものである。斜面を上れば上がるほど少しずつ運動エネルギーを失って減速していくはずなのに、宇宙はまるでロケット・エンジンをつんでいるかのように加速していくのである。そんなことは、何かエネルギー源がなければ起こりえない。しかし、そのエネルギー源がなにか今のところわかっていない。そのため、それを「暗黒エネルギー」と呼んでいる。現在の宇宙の物質やエネルギーのうち、7割程度が暗黒エネルギー、2割以上が暗黒物質(未知の物質)で、われわれが知っている宇宙(既知の物質やエネルギー)は、全体のわずか5%程度だと考えられている。ほとんど未知なのだ。
重力の効果とエントロピー増大の法則は、宇宙の物質の集中や拡散において逆向きの効果を及ぼす。まず重力は引力だから、物質を一箇所に集めようとする。これに対し、エントロピー増大は均一性を増大させる効果だから、物質を拡散させようとする。したがって、宇宙では重力とエントロピー増大のせめぎ合いが起きる。それでは、宇宙の進化においてどちらの効果が大きいのだろうか。
キャロル(2008)は、重力とエントロピーの効果が両方ある場合に宇宙がどうなるかを図で説明した[34]。下の図は、上段の3つが「重力なし、体積一定」、中段の3つが「重力あり、体積一定」、下段の3つが「重力あり、体積膨張」の場合における宇宙の進化を描いている。上段の場合、普通の気体分子のように物質は時間ともに拡散していく。重力がないからだ。中段の場合、物質は重力で引き合い、ブラックホール(BH)ができたときにエントロピー最大になる。下段の場合、物質はしだいに集まってブラックホールになるが、やがて蒸発して消滅する。残った物質は薄く拡散していき、エントロピーはいつまでも増え続ける。これが現代の宇宙論が示す描像の骨格である(キャロル,2008)。
図1-15. 宇宙のエントロピーと進化(キャロルの図の模写):上から順に(上)重力なし・体積一定、(中)重力あり・体積一定、(下)重力あり・体積膨張。
・宇宙の進化と物質の誕生
宇宙の進化における物質の生成についても振り返っておこう。重要なことは、宇宙が膨張すると宇宙の温度が下がっていくことである 。温度が下がるとさまざまな物質が生まれる。それは水蒸気に満ちた空気の中から霧が現れて水滴となり、もっと温度が下がれば氷となって現れるのに似ている。宇宙の温度の変化にともない、どのように物質が誕生するのか、現代物理が明らかにした姿を見てみよう[33-35,38-41]。(要点のみ抜粋。)
(ア) 火の玉宇宙:宇宙誕生直後(1マイクロ秒以内)は想像を絶する高温の宇宙だった。その温度では、物質は素粒子レベルでバラバラであり、物質や反物質が安定して存在できる状態ではなかった。
(イ) 粒子・反粒子生成:宇宙誕生後1マイクロ秒ほどたつと温度は十兆度程度まで下がる。このとき、バラバラだったクォークが3個ずつ結合して陽子や中性子、各反粒子が現れる。
(ウ) 原子核の誕生:宇宙誕生後1秒程度たつと宇宙の温度は百億度程度まで下がり、バラバラに存在していた陽子や中性子が結びついて原子核が合成される。
(エ) 元素合成:宇宙誕生後3分ほどたつと温度が十億度になる。すると、光が物質(重水素)を壊さなくなり、残っていた中性子がヘリウムに取り込まれて、軽い元素(水素76%、ヘリウム24%とわずかのリチウム)が生成される。
(オ) 物質の時代:宇宙誕生後5万年ほどたち温度が一万度程になると、膨張にともなう温度低下が物質より光の方が早いため、宇宙のエネルギー支配が光から物質に代わる。宇宙の主役が「光」から「物質」に変わる時代だ。
(カ) 宇宙の晴れ上がり:宇宙誕生後38万年たち、温度が三千度まで下がると、重要な事件が起きる。「宇宙の晴れ上がり」だ。この温度になると電子が原子核に取り込まれて原子になり、空間を漂う電子が減るため、光は直進できるようになる。これは霧が晴れて大気が透き通るのと同じで、宇宙は誕生38万年で霧が晴れたように透明になった。これを「宇宙の晴れ上がり」という 。
(キ) 恒星や銀河の形成:宇宙誕生後4億年たつと、第一世代の星の形成や銀河の形成が始まる。物質は原子として電気的に中性であるため、電磁気力ではなく重力がはたらく。物質はゆっくりと集まって塊となると、温度が上昇して光を発し始める。それが恒星である。そして、銀河や銀河団も宇宙誕生後4億年頃に形成され始めたと考えられている。
(ク) 現在:恒星や銀河が誕生した後、地球が誕生するのは今から46億年前(宇宙誕生後約90億年)である。そして生命の誕生は38億年前、多細胞生物の登場が10億年前、哺乳類誕生が2億2500万年前、人類出現が20万年前で、現在は宇宙誕生から138億年後だと考えられている。
以上が宇宙における物質進化の大ざっぱなストーリーである。
ちなみに、われわれの太陽は第三世代の恒星だと言われている。第一世代の恒星とは、宇宙誕生後、最初に生まれた世代である。その寿命の終わりに超新星爆発を起こして周囲に物質をまき散らし、それが再び集まって第二世代の星となる。さらに、その寿命の終わりに超新星爆発を起こして周囲に物質をまき散らし、それが集まって第三世代の星となる。太陽系の形成は宇宙誕生後80億年頃に始まったと考えられている。
恒星の第一世代の誕生がは宇宙誕生4億年後だが、銀河や銀河団も同じころに形成され始めたと考えられている。近年、宇宙観測は宇宙望遠鏡(人工衛星タイプの望遠鏡)によって行われているが、そうした深部宇宙観測によって宇宙誕生8億年後あたりの第一世代の恒星の観測[42]や宇宙誕生7億年後の銀河の観測[43]などが報告されている。最近では宇宙誕生5億年後の銀河も見つかっており、しかも5億年後から20億年後の銀河138個を詳しく調べることにより、中島ら(2023)は5-7億年後の宇宙で酸素が急増したことなどを明らかにしている[44]。
現在、宇宙望遠鏡は急速に発達しており、観測能力が向上している。もし今後の観測で宇宙誕生4億年後頃の銀河が見つかれば、それは本当に(観測可能な範囲で)最古の銀河ということになるだろうし、もしそれ以前の3億年後や2億年後の銀河があれば、現在の宇宙モデルそのものを修正する必要が出てくるかもしれない。それを考えただけでもワクワクする分野である。
・過冷却の宇宙
宇宙の進化における物質の生成についても振り返っておこう。重要なことは、宇宙が膨張すると宇宙の温度が下がっていくことである 。温度が下がるとさまざまな物質が生まれる。それは水蒸気に満ちた空気の中から霧が現れて水滴となり、もっと温度が下がれば氷となって現れるのに似ている。宇宙の温度の変化にともない、どのように物質が誕生するのか、現代物理が明らかにした姿を見てみよう[33-35,38-41]。(要点のみ抜粋。)
宇宙の起源について振り返ったが、私たちの興味は「宇宙の起源」ではなく、「宇宙からなぜ生命や意識という不思議なものが誕生したか」である。そういう観点から、宇宙の進化において何が重要だったのかを考察し、進化のストーリーを見直してみよう。
リーヴズ(1992)は、宇宙の進化に二つの幸運があったと述べている[33]。
「宇宙における非平衡の出現に関しては、二つの年代を記憶しておかなければならない。
1.宇宙誕生後一分以内では、あまりの高温のために原子核がただちに分解してしまい、核エネルギーは利用不可能な状態にある。宇宙誕生一分後に、原子核が形成され、存続できるほどに温度が下がり、… 宇宙の中で核エネルギーが利用できるようになる。
2.同様に、宇宙誕生後百万年以前では、ただ一つの銀河も恒星も生まれることができなかった。百万年以降になって、十分に冷えた宇宙の物質が収縮できるようになり、天体を生み出すことができるようになる。
これら二つの幸運な出来事に敬意を表することにしよう。そのおかげで構成の存在と長寿が保証されたのだから。そのおかげで太陽は地球に数十億年にわたって温かい熱を与えることができ、そのあいだに地上に生命が出現しえたのである。」
(H.リーヴズ(宇田川博訳)、「宇宙・エントロピー・組織化」、国文社(1992), pp.128-129)
リーヴズの言う二つの幸運は、膨張速度とエントロピーに関係する。宇宙の膨張が急激だと、温度が急激に下がる。そして、相転移付近で温度が急激に下がると「過融解」が起きる。過融解とは、本来であれば固体になる温度であるのに液体の状態が維持される現象である。例えば、水(液体)は0 ℃(融点)で氷(固体)になるが、0 ℃付近で温度低下が急激だと水の状態が維持される。これが「過融解」である。
これと同じことが、起きたと考えられる。水は0 ℃で凍るが、核を作る物質(陽子や中性子)は10億度で「凍る」[33,p.130]。10億度より温度が低くなると陽子や中性子が核力によって結合し、原子核が合成されるのだが、その温度(相転移温度)付近で温度の低下が急だと、「過融解」のため原子核の合成が進まない。
もし宇宙の温度低下がゆっくりならば、原子核は重い元素に転換され、すべて鉄になっていただろう。つまり、宇宙は鉄だらけになっていたはずだ。そのような宇宙での星の寿命は(今のように数十億年もなく)数百万年である[33,p.130]。そうなると、生命を誕生させる時間の余裕がほとんどない。いや、その前に水素、炭素、窒素、酸素など生命を構成する原子すら存在しない。そのような宇宙になってしまうのだ。
現実の(私たちの)宇宙は、大変幸運なことに膨張速度が大きかった。温度の低下が急速に起きたため、水素やヘリウムの合成までしか進まなかった。宇宙の元素はいずれ鉄になるだろうが、それには非常に長い時間がかかる。そのため、核力の最大エントロピー状態(鉄だらけの宇宙)になるまでの猶予の時間が、私たちの宇宙には与えられた。現在の宇宙は、核力の「過融解」状態にある。これがリーヴズの言う「第一の幸運」である。
第二の幸運は、電磁気力と重力に関係する。宇宙の温度が3000度を下回ると原子核と電子が電磁気力により結合して水素原子になる。電気的な結合はすぐ起こるので、電磁気的なエントロピーはすぐに最大になる [33,p.135]。これによって宇宙の晴れ上がりが起きると、電気的に中性な物質が重力の集積効果によって集まり、星や銀河の形成が始まる。重力の場合、エントロピー最大とは、物質がすべてブラックホールに吸い込まれた状態である。現在の宇宙を見てわかるように、宇宙はまだすべてがブラックホールになったわけではない。つまり、私たちの宇宙は今、重力的にも「過融解」の状態にあるのだ。
リーヴズの言うように、私たちの宇宙は幸運なことに、核力と重力の「過融解」状態にある。宇宙の急激な温度低下にエントロピー増大が付いて行けなかったのだ。こうして宇宙に非平衡状態が生まれ、エントロピー最大までの猶予期間が与えられた。
・情報の誕生
私たちの宇宙が初期に「火の玉」の状態であったことは、さまざまな観測的証拠があるので、間違いないだろう。ところで、「火の玉」は一様に近いので、ほとんど平衡状態だと言える。しかし、平衡状態から非平衡状態が生み出されるのはおかしい。なぜならエントロピー増大の法則にしたがえば、非平衡から平衡(エントロピー最大)には向かうが、その逆は起こらないからである。そう考えると、宇宙の進化の途中で非平衡状態が発生したというのはおかしくないのだろうか。この点についてD.レイザー、松田卓也、杉本大一郎がわかりやすく解説しているので、それを紹介しよう[45-48]。
レイザーによれば、宇宙の膨張こそ非平衡状態の誕生の起源である[45]。非平衡状態の誕生は「情報」の誕生でもある。ここで言う「情報」とは、エントロピーの最大値と実際のエントロピーの差のことである。
式で表すと I(t)=S_max-S(t) となる。S_max はその時代の宇宙がとりうるエントロピーの最大値であり、 S(t) は実際に宇宙がそのとき取っているエントロピーの値である。そして、情報 I(t) はその差だから、最大値まであとどれぐらいエントロピーが増大できるかを表していると見て良い。それは非平衡の度合い(エントロピー増大の猶予)でもある。
注意しなければならないのは、「情報」という言葉が多義的だという点である。情報の概念については後で詳しく議論するが、ここで言う情報 I(t) はエントロピー S(t) と符号が逆(-S(t) )だから、負のエントロピーのことである。負のエントロピーはしばしば「ネゲントロピー」と呼ばれているので、ここでも情報を I(t) をネゲントロピーと呼ぶことにしよう。エントロピー S(t) は無秩序さ(デタラメ)の程度を表しているから、ネゲントロピー I(t) は「秩序」や「構造」の程度を表していると考えれば良いだろう。また、I(t) は平衡状態 S_max からの距離を表すから(I(t)=0 は平衡状態)、ネゲントロピー I(t) は「非平衡の程度」を表すとも理解できる。
宇宙の進化を考える上で重要なことは、エントロピーの最大値 S_max が時代によって変わるということである。日常生活で目にする普通の物体は、単調に平衡状態に向かうため、エントロピー最大 S_(max )に達したら終わる。ネゲントロピーの言葉で言えば、どんな物体もネゲントロピー(秩序)があるうちはそれを使用し、使い果たしたら終わる。
宇宙の場合、最大のエントロピーの値 S_max が大きくなる。杉本(2002)はこの点を次のように説明している[48,p.84]。「宇宙が膨張すると温度が低く」なり、「熱平衡状態に対応するエントロピーの最大値 S_max が急に増大」する。彼はそれを、宇宙のエントロピーの最大値がリセットされるという言い方をしている[48,p.87]。宇宙には物質と物質を結合させるさまざまな力が存在し、その結合力にはそれぞれ異なる相転移の温度がある。相転移の温度とは、その温度より高いと物質はバラバラだが、その温度を下回ると物質が結合するという温度である。水で言えば0度が相転移の温度で、温度がそれより高いと水は液体の状態で分子が比較的自由に動けるが、それを下回ると分子が結合して氷(固体)になる。
宇宙の場合、膨張にともなって温度が急降下し、相転移の温度を下回る。各結合力の相転移の温度を下回るごとに、エントロピーの最大値がリセットされ、次々と新しい非平衡状態が生まれる[48,p.98]。宇宙は温度の急低下によって次々と新しい種類のネゲントロピー(秩序)を生み出してきたのだ。
このことをもっとよく理解するために、杉本の図[48,p.58]をもとに作成した図1-16を見よう。宇宙初期はエントロピーが小さかったが、エントロピーが増大する余地もなかった。その後、急激な温度低下によって物質が生成され、次々とネゲントロピー I(t) が生成された。ネゲントロピーの豊富な宇宙と貧弱な宇宙では、そこから生まれうる構造の多様性や複雑さがまったく違う。
宇宙は大量のネゲントロピーの生成によって、生命や意識のような複雑さを生み出せる「創造的な宇宙」へと進化したのである。
・非平衡が生み出す豊穣な世界へ
私たちの宇宙は「幸運」だと述べたが、それは「ネゲントロピーを使い切るまでにかなり猶予のある形で宇宙がリセットされた」という意味である。それがどれだけ幸運なことかを説明しよう。私たちの宇宙には、たまたま(幸運にも)宇宙の冷却時間よりはるかに長い緩和時間が与えられた。そのため、平衡状態(鉄やブラックホールだらけ)になるまでにかなり猶予がある。その間に宇宙はどうなっていくだろうか。
図1-16. エントロピーの最大値(太線)と実際のエントロピー(細線)。
(杉本(2002)の図を参考に筆者が作成。)
宇宙が低温になると物質同士が結びつき、複雑な構造が形成される。猶予の時間がたっぷりあるため、さまざまな偶然性がはたらき、多種多様な結合が進む。例えば原子と原子が結合して分子になる。分子と分子が結合して高分子になる。非常に確率は小さいかもしれないが、適切な環境が与えられれば、高分子と高分子が反応してもっと複雑な構造も生まれるだろうし、生命の材料となるようなものも出現するだろう。
ネゲントロピーは複雑性を生み出す。したがって、私たちの宇宙は与えられた猶予の時間を利用して、「複雑性」の階段を上り始めたのだ。宇宙は徐々に組織化され、階層的になっていく。その階段をリーブズ(1992)は図1-17のような絵で表現している[33,p.61]。
図1-17. 複雑性の階層。(リーブズ(1992)の図を一部修正。)
ここでもう一つ重要なことは、ネゲントロピー(非平衡性)は多様性を生み出すということだ。核力の猶予は、水素、ヘリウムだけでなく炭素、窒素、酸素など多種類の元素を生み出し、電磁気力の猶予は二酸化炭素、メタン、アミノ酸、タンパク質など多種多様な分子を生み出す。そして、重力の猶予は小惑星、惑星、恒星、銀河、銀河団、大規模構造など多様な天体現象を生み出す。これら存在物の豊饒さが多様性と複雑性となって現れる。そのため、非平衡から平衡に至るには多様な経路が可能になる。運が良ければかなり高い複雑性まで上っていけるが、運が悪ければ低いままで終わることになる。偶然の要素が重要な役割を果たすようになるのだ。
私たちの宇宙はいずれ(はるか先の未来ではあるが)エントロピー最大の平衡状態に至るだろう。その姿は、キャロル(2008)が描いたようなブラックホールが散在するだけの宇宙(図1-15)かもしれないし、「ビッグクランチ」と呼ばれる大圧縮かもしれない。いずれにせよ、さまざまな経路(歴史)を取ることが可能であり、そこに大きな自由度がある。
図1-18は、リーブズ(1992)[33,p.123]の考え方を参考にして描いた宇宙の多様な経路(宇宙の歴史)である。縦軸は複雑さを表す。私たちの宇宙が実際にどのレベルまで上がれるかは、宇宙の初期値に依存するという意味で「運」次第である。ただ、確実に言えることは、最終的には複雑さが消えて単調な構造になるだろうということである。それは鉄だらけ、ブラックホールだらけの単調な宇宙である。
図1-18. 複雑さから見た宇宙の歴史。太線が私たちの宇宙。
細線は私たちと別の経路(歴史)を歩む3つの仮想宇宙。
(リーブズ(1992)の図[33,p.123]を参考に作成。)
今の宇宙は、当分の間、ネゲントロピーを使い切ることはない。それは人類の進化の時間スケール(1千万年程度)よりはるかに長いスケールの話だ。当分、宇宙は非平衡状態の中にある。だから、私たち(生命)はもっと高いレベルまで複雑性の階段を上がって行くことができる。どこまで上っていけるのかはわからない。意識を持つ生命以上のものが誕生するのか、それとも人類程度で終わってしまうのかはわからないが、これまでの宇宙進化や生命進化の歴史から想像すると、何かもっと高いレベルの複雑さが現れてもおかしくはない。
本章で説明しておきたいことがもう一つある。それは、
ネゲントロピー(非平衡性)は「新しさ」を生み出すということである。リーブズは次のように述べている[33]。(傍点はリーブズによる。)
「平衡という状況から外れたとき、自然界に起きる出来事の結果は部分的にしか予測可能ではない。そのことから、現在が持つ未知の性格が出現してくる。…(中略)… 新しいものは非可逆的である …(中略)… 可逆的な運動はすべて、新しいものを生み出さないという共通点を持っている。過去と未来とは交換可能なのである。たしかに膨張は可逆的であるが、膨張によって物質に課される諸条件こそが、自然界に非可逆性と新しいものを生み出していく。宇宙膨張は、非平衡の出現を促すことで非可逆性を導き出し、ひいては宇宙をより複雑なものにすることができるのである。」
(H.リーヴズ(宇田川博訳)、「宇宙・エントロピー・組織化」、国文社(1992), pp.143-145)
リーブズが言うように、新しいものは不可逆・非平衡から生まれる。このような
非平衡から生み出される新しさが、「生命」や「意識」について考えるときに非常に重要になってくる。
さて、次章(第2部)ではいよいよ「生命」について議論する。生命の定義は難しいが、「代謝」や「遺伝」は生命が持つ本質的な性質と言って良いだろう。そして、そのどちらも情報やネゲントロピーの概念に深く関わる。第1部で説明した「情報(ネゲントロピー)の誕生」とそれによる「創造的な宇宙」への進化がなければ、生命は誕生しなかっただろう。次章で生命と情報の間にある本質的な関係について探っていこう。
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[45] D. Layzer, ``The arrow of time,”Astrophys.J. 206 (1976),559.
[46] 松田卓也、「星は進化しない!宇宙膨張と時間の流れ」、天文月報1978年12月、316-319(1978)
[47] 松田卓也、「モレキュール型『宇宙現象での進化と時間の矢の問題』研究会報告」(1979)
[48] 杉本大一郎、「いまさらエントロピー」、丸善(2002)
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