第1章 宇宙と時間:情報はどこで生まれたか



1.1 ラプラスの悪魔

・「今」は存在するか、時間は流れるか

 宇宙という物質の世界からどのようにして生命や意識が誕生したのかは難しい問題である。 この問いの根底には、生命や意識を物理現象として説明したいという欲求がある。 つまり、それらを物理学の範囲内で科学的に説明したいということだ。ところが、生命や意識は物理学と相性が悪い。
 例えば、私たちの意識では明らかに「今」という瞬間を感じ取ることができるし、 それが未来へ向かって流れていくとも感じる。しかし、物理学で表される時間軸の中に特別な 「今」という瞬間はない。また、未来へと流れる「今」もない。生命は過去から未来に 向かって生きているが(過去は記憶できるが未来は記憶できない)、 物理学の基本法則は過去と未来について対称である。どうして生命は過去だけ記憶し、 未来は記憶しないのだろうか。こうした疑問を解くには「時間」についてもっと深く考えてみる必要がある。
 時間とは何だろうか。5世紀の哲学者A.アウグスティヌスは「時間」のわからなさについて次のように述べた[1]。

  誰も私に尋ねなければ,私はそれを知っている。私に尋ねる人にそれを説明しようとすると、私はそれを知らない。
     (H. プライス(遠山峻征、久志本克己訳),「時間の矢の不思議とアルキメデスの目」,講談社, 2001,p.1)

 これは時間のわからなさを表現した面白い言葉である。時間を理解することの難しさは、 最近のいくつかの本のタイトルを見てもわかる[2-5]。「時間という謎」(森田邦久、2019)、 「時間はどこから来て、なぜ流れるのか」(吉田伸夫、2020)、 「時間は逆戻りするのか」(高水裕一、2020)。少し古いが「時は流れず」(大森荘蔵、1996) とい本もある。はたして時は流れるのか、流れないのか。
 「時が流れる」という表現は、「今」が過去から未来へ移り行くことを表している。 「今」という瞬間が未来へ向かって動いているというのが多くの人の実感ではないだろうか。 ところが、 物理学の中で「今」を定義することはできない。 時間座標の原点を「今」と呼ぶことはあるし、 未来と過去を区別するために適当な時刻を「今」と設定することはあるが、 私やあなたにとってのこの「今」は物理学の中に登場しない。物理学の中にあるのは、 空間軸と同様に静止した時間軸だけなのだ。つまり、 物理学の時間は流れない。
 ニュートン力学で物体の運動は一本の世界線で表される。その世界線に特別な 「今」は存在しない。そのため、ニュートン力学の時間は、時間軸として静的に存在するだけである。 過去から未来へ向かう「向き」すらなく、「時間の流れ」というものは表現されない。 下の図(a)はそれを表している。もし「流れる時間」(移り行く「今」)を表現したければ、 その世界線上に「今」を表す点を描き、その点に向きを持つ矢印を与え、 世界線上を移動させていくしかないだろう。それを表したのが右の図(b)だが、 そのような矢印は物理学に含まれていない。


図1-1. (a) 物理学では物体が向きのない世界線として描かれる。
(b) 移り行く時間を表すには点(今)と向き(未来)が必要になる。

・未来は決まっているか:決定論と自由意志

 ニュートン力学が描く世界線にはもう一つ不思議な性質がある。それは、世界線がどんな曲線を描くのか運動方程式によって決まっていることだ。運動方程式は「質量×加速度=力」という形をしているので、力がわかれば加速度が決まる。加速度が決まれば速度が計算でき、速度が決まれば位置がわかる。こうして、力から物体の未来の位置が決まってしまう。つまり、ニュートンの運動方程式を解けば、未来が予言できてしまうのだ。
 例えば、宇宙のかなたから彗星が飛んできたとしよう。現在の彗星の位置と速度がわかれば、その彗星にどのような力がはたらくかがわかるので、将来、彗星がどこへ飛んでいくのか計算できる。もし地球と衝突する軌道ならば、地球は彗星をよけることはできない。未来は決まっているのだ。
 この例が示すように、すべての物体の未来は(ニュートンの運動方程式によって)すでに決まっていることになる。そのような考え方を「決定論」と言う。決定論によれば、(未来はすべて決まっているのだから)自分が未来を選択したという感覚は私たちの思い込みにすぎない。自由意志は幻ということになる。
 19世紀の数学者P.S.ラプラスは、決定論の考え方をわかりやすく説明するため、次のような例えを用いた。現在のすべての物体の位置や速度、力を知っている何らかの「知性」がいたとしよう。そのような知性がいたとしら、その知性は運動方程式にしたがってすべての物体の未来を計算し、宇宙の未来を完全に予知することができる。その知性には不確実なことは何もなく、過去と同様に未来がすべて見える。ラプラスが想像したこの架空の存在を、現在では「ラプラスの悪魔」と呼んでいる。
 ラプラスの悪魔はいるのだろうか。つまり、決定論の考え方は正しく、未来はすでに決まっているのだろうか。そうであれば、私たちの自由意志は幻にすぎない。この問いに対して二つの答えが可能だろう。
 第一の答えは「イエス」である。未来はすべて決まっている。自由意志など幻にすぎない。この考え方は、未来を含めすべてが物理法則により決まっていて、「流れゆく時間」などないとする静的な4次元宇宙観である。その見方の典型は最新の宇宙モデルである。下の図は最新データに基づいた宇宙像を表しており、過去から未来まで宇宙の進化の全体像が描かれている。



図1-2. 物理学者が描いた138億年の宇宙 (Courtesy of NASA/WMAP team)


 二つ目の答えは「ノー」である。この場合、未来は決まっていない。だから、自由意志が存在する余地が出てくる。 それは、私たちの経験に合った見方であり、心の内側から世界を眺めるような世界観である。 この見方をうまく表したのが、マッハの著書に描かれた絵(下の図)である[6]。 この見方では、宇宙の方が「私」(の主観世界)の一部であり、時間はつねに流れている。 このように、私たちの経験に基づけば、時間に「流れ」があることは明らかである。 この見方では、私たちは未来を変えることが可能であり、私たちには未来を選択する能力、 すなわち「自由意志」がある。


図1-3. E.マッハの著書に描かれたイラスト。認識者の視点から見た外の世界が描かれている。

 上述の2通りの見方にはそれぞれに根拠がある。宇宙モデルのような決定論的な見方は観測データや 物理法則を根拠としている。したがって、これを疑うことは、物理法則や実験結果を疑うことにつながる。 それに対し、経験的な見方は、私たちの直接的な経験に基づいている。物理法則と合わない部分もあるが、 直感的でわかりやすい。例えば、物理法則は時間対称で「時は流れない」と言うが、 私たちの直感は「時が流れる」と訴える。時間が流れる見方と流れない見方のどちらが正しいのか、 それは学術的にもまだ結論が出ていない。

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