プロローグ:存在の謎



0.1 情報と実在

・世界は存在するか

 「目の前に広がるこの世界は本当に存在しているのだろうか?」 そんなことを考えたことはないだろうか。 コンピューター・グラフィクス(CG)やヴァーチャル・リアリティ(VR)の技術が進歩し、 これだけ現実の世界をコンピューターで再現できるようになると、 どこまでが現実でどこからがCGやVRかわからなくなる。もしかしたらすべてがVRで、 私たちは夢を見ているだけかもしれない。夢が覚めたら、今見ている世界とは別に、 本当の世界があるということはありえない話だろうか。
 映画「マトリクス」(1999)が描く世界はそのような世界である。この映画では、 主人公を含め、すべての人の脳が機械につながれ、夢を見させられている。 人々はその夢を現実だと思いこんでいるが、それは機械によって作り出された幻の世界なのだ。 その中で主人公だけが夢から覚め、現実の世界と夢の世界を行き来しながら機械と戦うという物語だった。
 私たちが現実だと信じているこの「現実世界」が、映画「マトリクス」で描かれたような 「夢の現実」(幻)でないと私たちは証明できるだろうか。どう考えてもそれは不可能だろう。 なぜならそもそも私たちが見ている世界、聞いている世界、手や皮膚で感じている世界は、 すべて神経を通って脳へ信号として送られ、その信号をもとに脳が私たちの心の中に作り出した幻の世界だからである。 だから、それらと同じ信号を脳に送れば、私たちには同じ映像が見え、同じ音が聞こえ、 同じ手の感触が残るはずだ。つまり、現実の世界だと思って私たちが見ているこの世界は、 脳に送られた信号をもとに作り出された「情報世界」にすぎない。
 このことはギリシャ時代(紀元前)の哲学者プラトンがすでに気づいており、 「洞窟の囚人」の比喩を用いて次のように説明している[1]。 洞窟の中に閉じ込められた囚人がいる。彼は洞窟の入口に背を向け、頭を一方向に固定されている。 囚人の背後にはかがり火があり、それによって壁に映しだされる人や動物の影を彼は「実在」だと思い込んでいる。 しかし、それは壁に映し出された影にすぎない。プラトンは、このような影と実物の関係が、私たちが見ている 「現実世界」と実在世界の関係だと言っているのだ。



図0-1. プラトンによる「洞窟の囚人」の比喩

「現実世界」に対するこうした虚像感から、本気でこの世界がシミュレーションだとする考え方 (「シミュレーション仮説」と呼ばれる)を主張する人たちもいる(2021)[2]。 彼らは、私たちの文明よりはるかに進んだ知的生命体が何らかの理由で進歩の 遅い生命種の各個体に夢を見させており、それが私たちの見ている世界である可能性が高いと考えているのだ。 私はそのような可能性はとても低いと思う。しかし、それを本気で考える人が出るほど、 私たちはバーチャル(仮想的)に現実感を作り出せるようになってきた。

・現実という錯覚

 私はシミュレーション仮説を信じていないが、私が今、見ている世界が、 私の目からの信号をもとにして私の脳が作り上げた世界であることは信じている。 この現実の世界が脳の作り上げた幻影だと言うと、そんなこと信じられないと思う人がいるだろうが、 この世界が(そういう意味での)幻であることは、さまざまな事実によって裏付けられる。 その例の一つが、心理学でしばしば取り上げられる錯視である。
 下の左図(図0-2(a)を見てほしい。じーっと見ていると、 白い線の交点に(実際には存在しない)灰色の点が見えてくる。 これは脳が私たちの心の中に「灰色の点」を作り出しているからである。 また、右図(図0-2(b)の4本の長い線はすべて平行なのに、 斜めの短い線があるために平行に見えない。これも脳が心の中に「平行でない」という 感じを作り出しているからである。こうした例を通して、 私たちは現実の世界と脳が作り上げた世界のずれを認識できる。 私たちは自分たちの脳にだまされているのだ。


図0-2(a) 白線の交点に灰色が見える、 図0-2(b) 4本の平行線が平行でなく見える

 このように私たちは簡単に自分たちの脳にだまされてしまうわけだが、 それでは確かなことは一つもないのだろうか。哲学者たちはたった一つだけ確かなことがあると言う。 それは、何かを経験しているという事実である。たとえそれが映画「マトリクス」のように機械が 作り出した世界だったとしても、そこで何かを経験しているということ自体は否定できない。 その意味で、経験は確かに存在するのだ。
 「存在とは何か」という問題は古くギリシャ時代から議論されてきた。 その中でしばしば「経験」を重視する考え方が提案された。それは、 「物理的な世界が存在する証拠はないが、私たちの経験自体は確実に存在する」という考え方である。 そのような考え方を「経験論」と言う。これと対照的に、「物理的な世界は本当に存在する」 と信じる人たちもいる。そういう考え方を「実在論」と言う。経験世界の他に(心の外に) 物理的な世界が存在すると考える場合、問題となるのは物理世界と経験世界の接続関係である。 物理世界を認めると、そこに経験世界(心)が入り込む余地がないことに気づく。 逆に、経験世界を認めれば、そこに物理世界が入り込む余地がない。 それらは相反する存在のように見えるのだ。

・機械に悲しみは宿るか

 映画「マトリクス」は、人間の脳が機械につながれ、機械が作った世界の中で人生を 送らされているという設定だった。これとは異なり、心が機械の中に移送されてしまう という設定の映画もある。例えば、2015年の映画「チャッピー」は人間の脳がロボットにつながれ、 意識がロボットの中に転送されるという話である。そこでは人が亡くなった後もロボットの中で生き続けられた。 また、2014年の映画「トランセンデンス」では、人間の意識を機械の中に転送させる実験を行う科学者の話だった。 その科学者は自分自身の意識を機械の中に移して機械の中で生き続けようとした。 しかし、機械の中に移ったその人の性格は徐々に変化してしまい、 いろいろな問題を引き起こすというストーリーだった。
 これらの映画の設定は「マトリクス」とよく似ているが、重要な違いが一つある。 それは、「マトリクス」では人間の脳が機械につながれて、単に人間の脳に信号が送られることで 機械に「世界」を見させられていたのに対し、「チャッピー」や「トランセンデンス」では、 もはや脳は存在せず、機械自体が脳の役割を果たしていて、機械が心の「世界」を 生み出しているという点である。この点は非常に重要な違いである。
 あなたはどう思うだろうか。将来、科学技術が非常に発達したら、 人の心を機械に転送できるようになると思うだろうか。私自身は、 私が見ているこの世界が脳の作り出した世界(幻)だということ(マトリクスのような設定)は認めるが、 「チャッピー」や「トランセンデンス」の話のように脳のない状態で生き続けられるのか (機械が心の世界を生み出せるのか)については大きな疑問を感じている。 その理由は、脳内での化学的な過程が「心」と密接な関係にあると思っているからである。


図0-3(a) 左:映画「マトリクス」では機械から脳に信号が送られ世界が見える、
(b) 右:映画「チャッピー」では人の心が脳から機械に移される

 例えば、「トランセンデンス」のように機械の中に移送された「心」はどのような性格を持つのだろうか。 私たちの性格や感情は体の化学的な反応の影響を大きく受けている。 例えば、体に糖分が足りていないだけでもイライラしたり、ぼんやりしたりする。 あるいは、男性ホルモンが多いとこうなるとか、女性ホルモンが多いとこうだとか、 化学的な反応によっていろいろその時の心の状態が変わってしまう。だから、私たちの「心」は 決して機械的な部分だけではなく、化学的な部分やその他の過程も含んでいるはずだ。
 「トランセンデンス」のように機械に「心」を移送できると思っている科学者は多いかもしれない。 もし「チャッピー」や「トランセンデンス」のように「死ぬ瞬間に心を機械に移せば永遠の命が得られる」と 科学者に言われたら、あなたは心を機械に移すだろうか。もしかしたら「移す」と答える人がいるかもしれないが、 私は絶対に移さない。機械に移ったその心が「私」だとは到底、信じられないからだ。 それは単に機械の中に現れた「私もどき」にすぎないのではないだろうか。
 私がここで議論しているのは、映画「トランセンデンス」や「チャッピー」のような装置を将来、 人類が作れるかという話ではない。そもそも「心」とは何かという疑問である。最近はAI(人工知能)に 心が生じるかという問題がよく出されるが、それを問うには「心」が何かを定義できなければならない。 しかし、それは簡単ではない。この問題については第3章で詳しく議論する。

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